■ エヲカク ■

2011年10月06日

昨夜、この人の話を久し振りに人にしたので……「よし、行くわ」

 この年初から、幾人かで小じんまりと集まって、詩を読む会をやっているんだけど、昨夜は話の流れで死に際のことに。闇米を食べる事を拒んで死んだ裁判官の話からの流れからのいろいろで、自然と「ソクラテスの弁明」に行きついて……っていう夜だったんだけど。
 話の本筋とはちょっと外れるんだけど、そこで山田貴久くんという、若くして死んでしまったギタリストが亡くなった時のことを思い出して、ちょっと話をした。zoe君と呼ばれていた人です。
 彼が死に際に残した言葉は「よし、行くわ」。
 要は、実際本当にものすごい葛藤のなかでの闘病だったと思うけど、最後は彼は自分で整理をつけたんだと思うんだよ。勝手な想像だけど、まあ悔いの少ない人生を送った人だったと思うし、コレと決めて自分でやってきた人だった筈だから、なので整理が付けられたっていうことだと思うし、それゆえのその言葉だったんじゃないかなと思うけど…… まあ憶測だけど。
 彼が音楽活動をそれまでのようにできなくなってから、じゃあ自宅や病室でできることやろうっていう話になって、本の仕事をいくつか一緒にやったんだ。

 今日は朝からスティーブ・ジョブスが死んだニュースが流れて人が騒いでいたり、今週またちょっと縁のあった人が若くして病死したりして、まあ昨夜の話もあって、死についてちょっと考えたので……

 やりたいこときちんとやって死を迎える人は、誤解を恐れずに言えば、やっぱり幸せだと思うんだ。ソクラテスには毒杯を仰ぐ以外の選択肢があったと思うけど、彼はなんというか死を選んだ。なんでかって言ったら、強い実感とともにその生があったからだよね。まあ憶測だけど。

 以下、2006年03月24日にMixiに書いたやつ。zoe君の死の数ヶ月前、秋葉原の三井記念病院での話。今読み返すと、ちょっと手を加えたくなるけど、まあとにかくそのまんま:

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こうしている今も、都内のある病院のベッドのなかで、ぼくの大切な友人が、文字通り命を懸けた、大きな闘いに挑んでいる。

彼と知り合ったのは七、八年ほど前のこと。

知り合った当時の彼は、東芝EMIやソニーミュージックなどのレーベルからアルバムやシングルをリリースし、シリアスに活動しているバンドのギタリストだった。知り合いを通じ出会ったぼく達は、すぐに気が合って仲良くなった。彼のバンドが下北沢でライブをする時や、彼等が定期的に骨董通りのFAYでやっていたクラブイベントなどに、ぼくはよく足を運んだ。他のパーティーに一緒に出かけたりもした。

デヴィッド・マンクーソが以前の川崎クラブ・チッタでパーティーを開いた時に、踊るのに疲れたぼく達は、まったりと、ぼんやりとしながら、心地好い音をバックに、心地好く楽しい話に興じた。本の話になった。彼は読書家だった。主にハードボイルドやノアールを好み、他にも多くの本を愛読していた。ぼく達はジェイムズ・エルロイのLA三部作と、漫☆画太郎の『珍遊記』の話で盛り上がった。

下北沢の居酒屋などで、なんか良く判らないような話をして盛り上がったものだ。

四年程前、ぼくがある意味で、とても乱れて無意味に忙しくしていた時期、そういえば最近どうしているかな、と思ったら、彼は入院していた。大きな病院の一室で、いきなり襲ってきた、得体の知れない、症例のほとんど無い奇病と闘っていた。その時、彼はほとんど丸々一年間を病院で過ごした。

過酷な闘病生活と治療のあとを隠すように深々とニット帽をかぶり、どうにか復帰した彼の、ミュージシャンとしてのキャリアは大きな方向転換を求められていた。もう、ライブはできない。毎月々々の検査入院。ちょっとでも異常が見付かれば、その場ですぐに、検査ではなく、普通の入院になる。予定を組めない。それでも、以前からやっていたCMのBGMなどのスタジオ仕事の話はあった。NHKの番組、「トップランナー」の音はぜんぶ彼の仕事のはずだ。最近のものでは、石丸元璋の本に付くDVDのサントラは彼の作品だ。

でも、なるべく家でできる仕事がしたい。徹夜のスタジオがきつい。だから、ぼくは彼の翻訳の仕事の手伝いをするようになった。彼の読書センスが、ぼくは好きだったから、抵抗は無かった。

ぼくがたまたま持っていた、ある盲目の少女の、犬ぞりレースと、見えない目と共に生きてきた回想録の仕事を、どうにか彼と結び付けられないかと思った。犬が好きで、困難を背負って闘っている。そんな彼にぴったりの本だと思ったのだ。頑張って、くじけずに、逆境をものともせずに自分の人生をひた走る、そんな盲目の女の子のこれまでを描いた自伝だ。そこに彼女の愛する人達と犬達の物語が刻まれている。

ある縁が実を結んで、その本が彼の翻訳で幻冬舎から出版されることになった。その出版日が明日、3月25日だ。

ぼくは、刊行を前にして送られてきた見本を持って、また彼の病室を訪ねた。病気が再発してしまった彼は、また、過酷な闘病生活を送っている。胸に大きく白く「NO WAY」と書かれた濃紺のTシャツを、彼は着ていた。

盲目の犬ぞりレーサーは、つい先日、極寒のアラスカでの1800キロにも及ぶ、最高峰の厳しい犬ぞりレースを、ついに完走した。病室のぼく達は、その勝利と、そして彼が訳した彼女の本の日本での出版をささやかに祝った。エッジに立っている彼は、それでも以前と同じように、ユーモアに溢れていて、真直ぐで、力強い目をしている。

「自分の命を叱咤する日々です」

彼からのメールの一文。

……ぼくは、ただ、ひたすら、祈りを奉げています。

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『盲目の犬ぞりレーサー―私に見えるのは可能性だけ』
レイチェル・セドリス, リック・スティーバー(著)
山田 貴久 (訳)
http://www.amazon.co.jp/dp/4344011503/

 
 
 
 
 
posted by マリオ曼陀羅 at 11:19| Comment(0) | TrackBack(0) | excavated_archives | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月22日

発掘したら何か出てきた

 1996〜98年頭までフィラデルフィアにいたころのアーカイブをインターネット上で思いがけず発掘。六割方、堀り起こす事ができた。イヤー面白いな、これは! 元々の目的は、僕が学生生活の最後の最後になって初めてその存在に気付いた学問の世界でちょっとだけ足掻いた証拠の記録なのに迷子になっていたテキストの捜索。そのテキストがその後のぼくの人生を大きく変えたというのもあって。
 データも失くしちゃったし、プリントアウトも手元にないし、どんなことを恥ずかしげもなく書いていたのか具体的に思い出せないし、というかその存在を気にしたことすら正直今の今までなかったテキストがあったのだが、ある切欠で急にその存在が気になりはじめた。要はただの卒論なのだが、とにかく今朝、ネット上に蓄積されたキャッシュそれを見付けた。それと同時に併せてあれこれ見つけてしまったのだけど、そのテキスト量の膨大さに、分かっちゃいたけど打ちのめされたというか、その青臭さみたいなものを含め、とにかく軽い感動さえ覚えた。今もじゅうぶん青臭いのかもしれないけど……。というかインターネット上のデータは、こんな形で全てどこか知らないところで蓄積保存されているのだという事実というか威力を改めて思い出したのは良かった。明日からまた気をつけよう。
 でもとにかくそのひたすら青臭い姿勢で文学やら思想やらを思索していたあの時間が貴重なものだったというのが、今になって有り難いというか、知らない間にどこかでアーカイブ化されているのも便利と言えば便利だなというか……。今となってみれば自分が主人公の青春小説(実録だけど)を読まされているみたいなもので、まったく気持ちが悪くない訳じゃないけど、それ以上に甦る記憶と相まってグッときた。甦る記憶は既にストーリーやスナップショットでしかないみたいだけど、記録していた当時には、その記録の作業もひっくるめてリアルだったはずだと思うと不思議なムズ痒さ。
 とにかく発掘したデータをダウンロードしながら断片的に読み進めるうちに、これがあって今に作用しているあれがあるんだな、というのがはっきりと分かるようなものも随所に。というのが今日の嬉し恥ずかし体験の実感。
 日々の記録にちょっとした思索なんかが若干まじったテキストを、13年の時を経た今頃になって初めて読み返すと、なんというか最高に面白い。勿論そんなのを面白がることのできるのは当事者たる自分しかいないのだろうとは思うけれども。でも客観視するのにじゅうぶんな時間が経っているというのと、身を置いている環境もやっていることもまったく変わってしまっているというのがとても効いていて、エイジングされたテキストの味をこのような形で実感できる、しかも過去の自分を追体験できるっていうのは思い掛けない形で訪れた娯楽かもしれない。とにかく13年程前の自分の費やしていた気狂いじみたエネルギーが、今となってはちょっとブラックなコメディーのようだ。それからなんというか、毎日々々それだけ飽きずにうんざりするほど素振りしてればボールもバットも芯がどこにあるのかくらいはっきり見えてくるだろうよというような、不思議な的確さもある。内容のほとんどは半同居状態だった当時のガールフレンドとの日常生活のあれこれなんだけど、これがなんというか……。
 あー面白かった。当時は想像もしなかった絵を描く生活を今はしているわけだけど、この絵のしつこさは、あきらかにあの頃の種類の違う作業を通じて知らず知らずのうちに培われていたんじゃないかという気がする。他にもいろいろあったんだろうけどさ。毎日毎晩がまさにサイケがデリックしてたし。

 たまたま開いたところにあった記録から。大した事件じゃないけど、ちょっと変なことがあったらしい日の記録を部分的に。ジャミロクワイのライブに出かけたらチケットがSOLD OUTで仕方なくその場(Electric Factory)を後にしたという苛立ったしょぼい一夜のその後の出来事を、とても青臭くて思い上がった調子で(固有名詞はいろいろあるのでイニシャル化):

<省略>
 結局チケットは sold out でぼく達は会場の近くを少しうろついてから帰りのタクシーを探した。少し離れたトンネルの下に客を降ろしている1台のタクシーが見えたので、その車がこっちに来るのを待った。どうしようもなさそうな奴等が酒を飲んだり何かを吸ったりしながら、そこらじゅうにうようよしていた。前座の終るのを待っているのだろう。
 タクシーがぼく達の前でとまった。ぼく達はドアを開けて中に入った。「9th+Race まで」とぼくが云った。チケットを買いそびれたお金で、中華街で美味しい食事をしようということになったのだ。最近、ぼくの調子が悪くて口数が極端に少ないせいで、MKは不安そうだ。原因の一端は彼女にあるのだ。あまり気持ちの良くない地域を抜けるタクシーの窓から見える景色を眺めながら、ぼくは手をつなごうとする彼女の手を払いのけた。もしかしたら、ぼくの精神状態はこのスラムと同じくらい荒んでいるのかもしれない。
 車が中華街に入ったので、信号を渡ってすぐのところで車を停めてもらうことにした。ずっと黙って坐っているのが厭になったからだ。信号を渡ったタクシーが右折した。通りの少ない路地だ。ぼーっとする頭で、ぼくはこの運転手が早く車をとめるのを待った。彼はさらに細い路地に入って行こうとした。誰も通らない、暗いビルとビルの間の細い通路だ。何が起ころうとしているのか、すぐに判ったが、ぼくの意識はあまりにも不安定だった。ノロノロと曲がろうとするタクシーの横を、パトカーが同じくらいの速度で通った。運転手は急いでこっちを振り向いて金を要求した。自分の車が警察にマークされているのに気付いたのだ。彼の要求する金額をそのまま渡すわけにはいかなかった。タクシーが止まって、パトカーが速度を落とした。ぼく達は5ドルだけ運転手に手渡し、急いで車を降りた。外は静かだったが、通りの多い道にでるとうるさかった。あの運転手はまた誰か新しい獲物を探して走っているに違いない。ぼく達が乗る前に暗いトンネルの下で客を降ろしていたのも、そういうことだったのだろう。
 賑やかな中華街の通りを歩いている間、彼女はぼくにぴったりと、静かにくっついて動揺していた。1件のレストランに入った。ギョウザのうまい店だ。白人の親戚一同が騒ぎながら囲んでいるテーブルの横の席に通された。奴等は完全にできあがっているようで、周囲を気にもせずに大声で馬の性交の話や、最新テクノロジーの話などで盛り上がっていたが、馬鹿騒ぎする大人達にまじって1人でヘラヘラと、もっと馬鹿そうに坐っている子供が1人いた。とにかくぼく達の坐った席がその店でそのとき最低のテーブルだったことは間違いない。
 運ばれてきた料理を食べながら、さっきのタクシーの事を考えた。MKがタクシーのお金を払うときに運転手が言った「いくらもってるんだ?」という台詞を、彼はきっともっと落ち着いた状況で言いたかったのだろう。パトカーさえ来なければ。5ドルじゃ済まなかったはずだ。金で済んだかさえ疑問だ。
 彼女はまだ動揺を隠せないようだった。ぼくも少なからず興奮していた。それでやっと口をきいたのだ。しかしぼく達の言葉は横の席の馬鹿騒ぎで、何度もかき消された。醜く太った中年の女が、どうやって自分の馬が性交するのを止めたかを克明に説明して、そこらじゅうに米粒を飛ばした。そうやってやろうとすろ馬をいつも止めるのは良くないぞと、知性のかけらも感じさせないおやじが戒めた。それから暫く馬のセックスの話で彼等は騒ぎ、子供はさらに間抜け面をつくって微笑んだ。どうすれば彼等を止められるのか誰も判らなかったし、確かに馬のセックスの話は興味深くもまったのだ。それでもぼくは、ぼく達が食事中であることを判らせるために、彼等の内のひとりを睨み付けた。それも2度や3度じゃない。どこからどう見ても、下品な連中だった。きっと、あの子供も同じように下品に育つのだろう。可愛そうに。
 ぼく達の食事が終り、ぼくは煙草に火を付けた。席を立ち掛けていた親戚一同のうちのひとりが素早い反応をしめし、話題をチップの金額の話から煙草の話へと移した。丸テーブルの回りに立ちはだかったまま、彼等は喋り続けた。何から何まで品のない連中だ。ぼくはおまえらの食事が終るまで、煙草を吸うのを待っていてやったんだぞ。MKが、今度は彼等を睨んでいた。レストラン中に響き渡るような大声で、彼等は煙草にまつわる各々の話をいっせいに始めた。知り合いの誰の死因は肺癌だったとか、どこそこの家の婦人は煙草を吸う客は絶対に招かないとか、自分がどんなに苦労して禁煙に成功したか。全ての客が、いまや彼等の言動に注目していた。子供と、その親が、店を出た。追って、残りの2組の夫婦がウエイトレスに感謝をしめしつつ、店を出た。とたんに店そのものが消滅してしまったんじゃないか、と疑いたくなるくらいに静かになった。
 デザートに出されたオレンジをゆっくりと食べて、勘定を払い、ぼく達も店を出た。外は相変わらず賑やかだった。MKはまだ怖がっていた。両手をポケットに突っ込んで歩くぼくと手をつなごうと一生懸命だったが、やがて諦めた。中華街を抜けてから、暗い通りを避けて、ぼく達は Broad St. を通ってアパートへ戻ることにした。


 以上、1997年5月30日の一場面ということらしい。

 本来の目的だった英語の論文については、またいずれ。これが最近になって個人的に面白いネタなので。論文に限らず出てきたテキストのあれこれを読み返しながら、今の自分と照合する個人的作業をこれからちょくちょくやる場にここをするかも。そしてまただいぶ先の自分が、今度はこのテキストを元に同じことを繰り返すのでもいいや。長生きするつもりだし。
 
 ところで「ギョウザのうまい店」っていうのは、フィラデルフィアの中華街にあったDAVIDという店だな、きっと。もうつぶれちゃったみたいだよって、去年、当時の仲間と会った時に聞かされたけど、あそこのギョウザは確かにうまかった。



 
 
posted by マリオ曼陀羅 at 02:49| Comment(2) | TrackBack(0) | excavated_archives | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする