熊本の、というか、地震のニュースが辛い。この春に小学校を卒業した娘の、とても仲良くしていたグループのうちの一人が中学進学を機に熊本へと引っ越し、その別れの時を子供ながら盛大に過ごしている様子を微笑ましく眺めていたばかりだった。受験シーズンの終りを心待ちにして、それから毎日々々(ほんと毎日)近所の公園やら遊園地やらあっちこっちに集まっては皆で出掛けて遊んで、写真を呆れるほど撮って、アルバムを作って、そしてその子は意を決して熊本へと旅立って…… 携帯電話の写真には気丈な笑顔を数えきれないほど残して、大好きだった仲間達と離れ、勝手知らない遠くの土地へと移った途端、この終わりの見えない連発の地震。気象庁が前例のないと言っている。あの子はどんな気持ちで過ごしているんだろう。幸い、というか、今は子供達も携帯電話のインターネットで繋がっていて、Kちゃんの無事はすぐに確認され、仲間達は日々日々メッセージを交換しているけど……。
どこにどのようなリスクが潜んでいるかは誰にも分からないのがこの現実だとは思うけど、もし避災してこっちへ戻ってくるなら、この狭く(そしてものすごく)とっ散らかったうちに、気兼ねなく居場所を求めて欲しいと、娘からKちゃんへ連絡させようと昨夜は相談した。
こんなことがあると真先に気にかかるのは予め縁のある人の顔ということになってしまう。勿論、被災しているのは彼女達だけではないというのは百も承知なんだけど……
東日本大震災の後、というか、福島の原発事故の後、特定の勤め先を持たないで仕事をしている友人知人達が何人も東京を離れ、主に西へと移り住んで行った。僕の周囲に限って言えば、子持ちの音楽家達が多かった。音楽家たちが元々直感的な人間だからなのか、そもそも津々浦々の現場々々へと出向いて演奏やパフォーマンスの仕事をする人種(というか職種)だからなのかは分からないけど、とにかくそうだった。ツアーを組み、方々で演奏する機会の多い彼等彼女等には、予めいろんなところに頼れる仲間が多いのだということが、2011年の震災後の発見のひとつだった。ただし、そのようにして移住していった先で生活が容易く軌道に乗る人ばかりではなく、季節労働のような形で、一定期間を仕事の多い東京で過ごしたい人は少なくないのだろうとも知った。そんな友人のために、自宅を使ってもらったこともあった。……でも難しい思いが残った。この狭い世帯暮らしの小さな集合住宅に、仲良いとは言え他人の家族を丸ごと受け入れて気持よく過ごし続けるのは、なかなかにして大変なことなのだと、やってみて初めて知って、心苦しい思いもした。
でもそうも言っていられない現実というのがあるようで、特にそれが子供達のこととなると、またついあれこれと考えてしまう。
2011年の(特に)原発事故の後で、神戸出身の妻の友人一家が、妻と子供達を数週間に渡って受け入れてくれたけど、大変な思いをさせたのだろうなと、5年も経った今になって改めて思い、痛み入っております。なにがどうなるのか分からなかったあの時の不安を思い出しながら、この先どれだけ感謝しても足りないくらい有り難かったなぁ。
一昨年のウクライナのひどかったとき、仕事絡みで知り合った幼い子連れのウクライナ人の一家の、出国用のビザの申請を手伝おうとして、結局、最終的にどうしてもやり切れなかったことがあって、軽々しく考えてはいけないのだと知った。でもやっぱり縁があるからということで、放おっておけない気分になってしまう。
生きてさえいれば最終的にはどうにかなるだろうと思ってしまうような、(あまいと言われてしまいがちな)考えがどうしても抜けない。けど、抜けないままでいいや。
Kちゃん東京に戻ってくるなら、とりあえず寝食しばらく約束するわ。
身近なところからでごめんなさい。できること増やすためにも、自分のやってることのスケールをちょっとでも広げたいなと思いながら、無能を悔いるときです。
(後日談)……と思ったんですけど、子供から子供へそのような連絡を入れさせて、せっく踏ん切りつけて遠くへ引っ越して入ったKちゃんの里心に火をつけてしまうのも、やっぱり憚られ、かような提案をするのであれば、先ずは親to親が筋だろうと考えた次第です。とにかく被害が拡大しませんように。
posted by マリオ曼陀羅 at 00:00|
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