■ エヲカク ■

2017年11月15日

鉄兜と鱸

人の頭に食い込んで取れなくなった鉄兜を取る手伝いをしたことがあるんだけど、あれは面白いくらいうまく行った。スルッと抜けたもんな。いつだ? もう十年も前になるのか? どこだ? それは内緒。

あの時ぼくはそのめり込んだ鉄兜を、まず段階を踏んで一匹の鱸(すずき)に変えることに成功し、最後はそれをその人の頭からすぽんと抜き取って、それで解決したんだけど、なんのことかわかんないよね。

その鉄兜には、大砲の弾があたったか、なにか固いものに激しくぶつかったかのような、拳大にベコッと内側に凹んだ箇所ができていて、それが頭を圧迫するものだから、相当に痛そうだった。「取れない、取れない」と苦しそうに呻いてたけど、取れたらアハハと笑って、そのまま眠ってしまった。

思い出です。

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2010年07月29日

「根本的に判ったこと」と今思ったこと。

 根本的に判ったこと。それは、ぼくの遣り方は間違っているかもしれないということだ。
 考え方が間違っているのかもしれない。
 そういう風に考えたことは、以前から無いでは無かった。つまりあった。
 しかし、そうでない要素も確かにあるのだとも考えていた。
 ところが、確かにある筈だった“そうでない要素”というものの存在が揺らぎはじめた。
 ただ、揺らいでいるだけで、無くなりはしない。
 なぜなら、そこにこそ自由を見出しているからにほかならない。というか、そこにしか自由を見出せない。だけれども、自分の持っている自由に対する理解は完全ではない。

 今回、根本的に判ったこと、つまり「ぼくの遣り方は間違っているかもしれない」という事について、説明をできるものならしてみたい。

 ぼくはそのことについて知っていた。というか、そういう風に考えたことは、以前から無いでは無かった。しかし、はっきりと、それがどういう事なのかについて、判ってはいなかった。
 ひとつに、ぼくの遣り方は多くの場合、多くの場面で間違っていること。これはとっくの昔から知っている。多分本当に壊れていたからね。それが言い訳になるかどうかは、知らないけれども。今だってマトモかどうか、それがはっきりしていたら、こんな事は考えもしないし、考えたくもない。
 もうひとつに、ぼくの遣り方はその核心の部分で間違っていないと、多分なんとなく無意識的にまるで本能のように信じている部分があること。核心すべてではないとは思うけれども、多分どこかの特定的な部分。

 要はそのふたつ。
 そのふたつが、どういう訳か鬩(せめ)ぎ合うことがあって、それが、かれこれ数週間。いや、数ヶ月。数年間……。

 ぼくは仕方なく、絵を描きはじめました。
 そうしたら、止まらなくなってしまいました。そうしたらかれこれ九年間。

 そうしてみたら、いろいろなことが起った。絵だけではなく、仕事でもそう、なんと家庭も持ってしまった。子供がふたり、妻がひとり、こちらの責任範疇になってしまった。
 仕事では幸運もあった。その幸運というものが、どこに由来するものかという事を知った仕事だった。そして幸運は続いた。少しの間だけ。でもそれは幸運とだけ呼ぶには不十分なのではないかと、ぼくは思った。
 あらゆる葛藤を、ぼくは幼い頃から感じて、知っていたから。というのはちょっと大袈裟で、きっと60才には60才なりの、70才には70才なりの葛藤があるんだろうけどね。それでも割と、というかとても強く葛藤せざるを得ない場所で、どういうわけだか生まれ育ってしまったわけですが……。ちなみに誰ひとりとして恨んではいません。それはまあ葛藤の成果かもしれないな。いや、やっぱり思索したのかもしれないなとも思う。
 まあとにかく、幸運は幸運ということでさておき。
 遣り方の間違っている/いないだけれども、判ったことと言えば、信じられる核心というものが、例え部分的にでもあるというのであれば、それを信じるようにやるしかないということです。
 ただ、間違っているかもしれないと、そこについて思いを向けることによって、このように大きく反省ができたということは、そのように珍しいことでもなんでもなく、実は人間が必要に応じて日々行っている活動で然るべきだと理解できたということでもある。というとちょっと大袈裟だけど、改められるところは、そう気付いた時にそう改めなければならないな、と判ったということ。要は反省したってこと。これって無意味なのかな。

 
 
 正直、今はちょっと寝苦しい時期なのかもしれないな。暑いし。何の為に寝苦しいのかというのは、それは勿論みんなの為だよね。と言い切りたいけれども、それは自分の為でもある。先ずは自分がどうにかしなきゃいけないのかなぁ、という思いが、とても幼い頃からあって、それは一体どこから来たのかなぁ、と、記憶を穿り返してしまう癖があるみたい。普段は、もしくは、絵を描いている時には、そんな風に穿り返すような事が無くて、でもその穿り返さなくていいという状態のお陰で、仕事がうまく行くような良い体験もあったし、どうにかしなきゃいけないなぁと感じさせてくれる存在もあるのだろうな、とも思う。

 核の部分から、もう一度見直してみようかなぁ。
 それでもまだ変わらないことがあれば、今はとりあえず、それだけは信じ続けて反映させようかな。ようかなっていうか、そこまで信じられたそれはもうどうこう考えない方が良いかも知れないとも思う。
 大事な物を順番に。
 
 
 ……お片付けします。
 
 
 
 あと、今日閃いたことがあるんだけど、それはどうにかしてみよう。こういうときに、どうにかしてみた体験というのが役立つというか、支えになるんだよね。


【備忘※】

#

やっぱりフォークナー読んでる場合じゃなかった。というか、こっちも読みながらあっちこっちそっちどっち読まなきゃいけなかったのか…… 帰宅して気付いた。 約1時間前 webから

#   ↓

もちろん熟睡中の妻に話しかけたけど、最後まで聞いてはもらえなかった。話しかける方が悪いんだけど。わかってますけど。 約1時間前 webから

    ↓

# だけど伝えてみたかった思い付きというか閃きがひとつだけあって、もし彼女が仕事を残しているようなら、ちょっと起きる必要なることもあるなと思ったのも事実。さておき、閃いたことはすぐ実行に移したい。みんなが喜ぶ企画にできるといいな〜! 約1時間前 webから


 


posted by マリオ曼陀羅 at 02:32| Comment(2) | TrackBack(0) | past | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする