池袋のジュンク堂で作家の荒山徹さんのトークイベントがあるということで、この本の編集者である講談社の福田美知子さんがご招待してくださって、いそいそと出掛けてきた。題して「
荒山徹(作家)×細谷正充(文芸評論家) 百済・新羅 〜石田三成(ソクチョン・サムスン)を巡る時空〜」。
石田三成 ソクチョンサムスン [単行本]
荒山 徹 (著)
出版社: 講談社 (2010/7/2)
http://www.amazon.co.jp/dp/4062163128/ 時代小説雑誌『
KENZAN!』での(当時は『
柳生大作戦』のタイトルでの)連載の各号の扉の絵にぼくの絵を使ってもらい、またその連載が『
石田三成(ソクチョンサムスン)』というタイトルに変更されての単行本化の折に表紙の絵を描かせてもらった小説の著者が、その荒山徹さんという作家だ。“石田三成”という人名が韓国語読みの音で“ソクチョンサムスン”ということになるということなのだが、ちょっとというかかなり独自性のあるタイトル。同氏は『
徳川家康(トクチョンカガン)』という小説も去年出版しており、内容はまあ読んでのお楽しみということにしておくが、要は…… 要はどういうことなのだろう。
とにかくこの作家の経歴をものすごく簡単に書くと、新聞社勤務を経て韓国に留学、その後作家に転身、で今に至るということ。その留学中の韓国で学んだ韓国の歴史が、ご自身の大好物である剣術の柳生新陰流の柳生一族の歴史にはじまる日本の歴史の話と、かなり興味深いブレンドとなって成立しているメタフィクションの作家ということになるのだろうか。その世界では「伝奇小説」というジャンルに位置付けられるということで、先人には隆慶一郎や山田風太郎、荒俣宏、夢枕獏などがその系譜のなかに挙げられるようだ。御本人が新聞社を辞めて韓国に渡った背景には、ジャーナリスト時代に勤務地だった川崎市あたりでの経験がトリガーしたという経緯があるようで、
wikipedia の「荒山徹」の項によると「
在日コリアンの指紋押捺反対運動を取材したのがきっかけで大韓民国に興味を抱き独学で韓国語を学びはじめ、その熱が高じて留学した」となっており、それはどうやらフィクションではなさそう。
その筋ではとても有名で、というか周囲の様子を見るにつけ物凄くファンに愛されている作家であり、栄誉ある文学賞を授けられてもいる作家なのだが、現状ある意味で特殊カテゴリーの作家ということになると思うので、簡単に説明を書いてみた。
……で、書いてみたんだけど、書きながらこれがその小説世界や作家性の説明としては全く足りないんじゃないかとも感じる。
まあ大筋では恐らく上記の説明で足りているのかもしれないんだけど、その小説の描く世界観というか世界設定というか、そういう要素が破天荒すぎて、なんとも形容しがたい物語世界なんだよなぁ。三年前に初めてこの作家の世界に触れたのはその時に出版された『
柳生大作戦』という小説のジャケットの装画としてぼくの絵を採用してもらった偶然があったからなんだけど、その時には原稿を読んでとにかく絶句してしまって…… 非常に僭越ながら「この依頼を引き受けるべきか否か」というのを絵描きとしてかなり本気で悩んだことが記憶に鮮明に残っている。衝撃があったということだが、その衝撃というのが凄まじい違和感を伴った衝撃だったということでもある。「なんなんだ、これは一体!」というその衝撃が、やがて「スゴイなしかし! なんだこの筆力は!?」という衝撃に変わってゆくまでに数日要した。
(※ その時のリアルタイムの記録はココ: http://mario-mandala.seesaa.net/article/62101922.html) 「可能世界」という言葉が論理学や哲学にあるみたいだけど、荒山ワールドについては、まあ「不可能世界」としか言いようがない。“だけれども”なのか“だからこそ”なのか判らないけど、ただ荒唐無稽ではないメタフィクションとして成立してしまっているように思えるその理由が一体どこにあるのかなと考えた時に、今回のジュンク堂でのトークでも言明されていた「
隣国の歴史を、いかに親しみやすい物として紹介するか」という一点にその根拠のひとつが大きくあるのだろうなと思う。
これはこの荒山徹さんという作家が、そもそも新聞記者時代に体験したという、日韓という両国の歴史的関係性のなかに存在する各民族主義に起因する根強い政治的/民族的不調和に対し、少しでも開放的な視座を提案したい、という姿勢を持ってその創作に挑んでいるからではないだろうか。その開放を、氏はエンターテイメントの流儀で行おうとしているということなのだろうなと、今回も改めて感じた。なんというか突拍子も無さ過ぎて、また時にというか往々にしてキワど過ぎて、「親しみやすい物として」というところに疑問が残らないではないけど……。でもまあ扉のなかった場所に扉を作っているというのもまた間違いないことのような気もする。
今回の『石田三成(ソクチョンサムスン)』において登場する怪獣のような神話的生命体などは、特定のエンタメの世界においてはレトリックのひとつ典型的な形なのかもしれないけれども、例えばキリスト教世界で人間の暗部を幻想的な作品のなかに描き異彩を放ったオランダの画家のヒエロニムス・ボッシュの、倒錯的で狂気に満ちた、それでいながらも効果としてリアリティを突き付けてくるような妄想世界の産物などとも共通性があると言えなくもないような気がする。要はその効果だよね。
そのような文脈で考えてしまえば、フィクション化された世界のなかでどんな不思議なことが起ろうと、誰が死のうと蘇ろうと、時空を超えて目の前に現れようと、そんなのはまあどうとでも合理化できる単純要素ということになってしまう。
なんと言ったってヴァーチャルだからね……。
トークのなかで今後の物語の構想などいくつか披露され、そこでは例えば日韓という関係を離れたところでも、イギリスとフランスという対立があったり、また中国と周辺民族との対立構造の歴史があったりと、同類のコンフリクトというのは場所を変え時代を変えあらゆる形で存在してきたわけで、そのような人類の民族的対立構造を物語の設定として応用しようと思えば、それこそどのような形ででも二項対立の舞台として成立させることができるのではないかというような発言があった。(で、そこに柳生十兵衞とかを登場させればいいんだってさ! えっ!?!?)
また、例えば日本における律令制の確立がもたらした政治的転換などを挙げて、そこに最近の政治的事件などを重ね合わせることにより見えてくる立体的要素などについてもいくつか具体例を伴った話があった。
このようなパターン・レコグニションが根底にあるからこその荒山ワールドなんだろうなと勝手に理解した今回のトークだった。
その抽象性があるからこそ、この種のエンタメ世界のレトリックに馴れないぼくなんかにでも楽しめる読書ということになるんだろうな。トークの内容として特撮や漫画などのあれこれとの対比の話なども出ており、その辺もまたツボなんだろうなというのは察することができるけれども、例えばそういう元ネタに馴染みの薄い読者にも読めるというのは、やっぱりその歴史のパターン認識が礎となった創作だからじゃないかなと感じた。
トーク自体は概ねテンションがゆるゆるとした感じのハニカミ系で、対談相手の評論家/細谷正充さんとの掛け合いには、そこかしこで謎めいた笑いが起っていた。
ちなみに宝塚ファンのうちの奥さんも、先の『柳生大戦争』が切欠となっていくつか荒山作品を読んでいるのだが、そういう宝塚ファンのような様式美好きの人間からすると、荒山ワールドにはある種の馴染み易さのようなものがあるらしい。要は共有できるツボがあるというか。で、荒山徹さん御自身が宝塚ファンらしいと彼女に伝えたところ、妙に納得していた。
ということで、元々、阪急コミュニケーションズという、親会社を宝塚歌劇団と共にする出版社で雑誌の仕事などしていた彼女がスタッフとして仕事に加わった『宝塚歌劇検定 公式基礎ガイド2010』(阪急コミュニケーションズ)を最新号の『歌劇』だか『グラフ』だかと一緒に、荒山徹さんに献本させて頂いた。
「他になにか面白い本とかないの、レアなポスターとかカレンダーとか!?」と訊ねたところ、「だって何組の誰を贔屓にされているか判らないんじゃ選べるわけないじゃないっっ!」と、アンチ宝塚なぼくは軽く叱られました……。
さておき、福田さんにお誘い頂き、トークイベントの後の打ち上げの末席に加えて頂いたのだが、その席で異彩を放っていたのは、むしろ対談相手の評論家/細谷正充さんだったかもしれない! 50万冊までなら蔵書可能という3階建の自宅付きの書庫を所有されているようだが、ご本人曰く「ぼくはコレクターじゃない」とのこと。話を聞けば聞くほどそれは御尤もという感じで、要は「読みたいから手に入れているだけで、そうこうしているうちに数が増えただけのこと」というのには確かな説得力と迫力があった。
この五〜六月の神戸でのぼくの個展に、大阪在住の荒山徹さんは奥さんと共に足を運んでくださったのだが、その時のことを少しだけ聞けたことが、とてもとても嬉しかった。
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トークに耳を傾けつつ、馴れないスケッチしてみました。
妻曰く:
「裁判の傍聴にでも行って来たの?」
……ごめんなさい。
posted by マリオ曼陀羅 at 04:26|
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