「略)私たちが作ってきたルールやインセンティブは、その設計者の目的にかなう人々の行動を導き出すために設けられたものだと知っておく必要があります。」
去年訳した『なぜ働くのか』(朝日出版社/TED Books)で、著者のバリー・シュワルツはこんなふうに書いていた。そして次ように続くのだが、これがこの本で著者が主張することの(たぶん)屋台骨。
「もし社会が私たちにもっと多くのことを求め、そしてその社会制度が適切に整えられるのであれば、社会が得るものは増大します。人類学者のクリフォード・ギアツが言うように、人類は「未完の動物」です。人類の将来は、私たちがどのような社会をデザインしどんな人類を「作り上げて」いくかにかかっているのです。」
つまり、社会制度を「適切に整え」ることことこそが、人間社会を維持し、発展させてゆくための鍵ということだ。逆に言えば社会制度が適切に整えられなければ、この社会はどうなってゆくのだろうか?
※写真は今日の朝日小学生新聞。小学生でさえフォローしなければならないルールらしい。彼等の将来/未来に関わることなので当然か?政府が「働き方改革国会」の目玉のひとつとして頑張っているが、その制度作りの根拠の部分が残念ながらガセであることが判明し、一部過労死被害者の遺族などから「過労死促進法」などとも呼ばれているらしい「裁量労働制の拡大」。
いろいろマズイようなのだが、特になにがマズイかと言えば「1ヶ月で最も長く働いた日の残業時間」を一般労働者に訊ねる一方で、裁量制労働者には「1日の労働時間」を訊ね、そのような種類の異なる数字を比較して、裁量労働制の労働者の働く時間のほうが一般労働者のそれよりも短い(つまりより健全である)、という笑えない統計結果をはじき出し、それを根拠に<裁量労働制の拡大>を制度として実施しようとしたことのようだ(つまり、より不健全な社会をデザインしかねない)。
『なぜ働くのか』のなかで、社会学者のロバート・マートンの言葉として「予言の自己成就」というのを紹介しているが、どういうことかというと「状況についての誤った定義付けが、人々の新たな行動を喚起し、そのことにより、本来は誤りであった観念が真実になってしまう」ことだそうだ。……つまり上記のようなご都合主義的なデータをもとに労働環境を整備しようとすれば、ただでさえ過労死の出かねない(ていうか出てる)現実を更に悪くした上で、過酷な労働は労働者の自己責任(裁量)という解釈が可能になりかねないということ? とにかく根拠となるデータがそもそも(そもそも)おかしいのだから、その前提のままこの話を押し進めると、大きな誤ちの原因になりかねませんよ、ということだと思う云々(云々)。
労働時間の多寡に関わらず賃金を固定する制度になりそうだということで、仮にこの制度によって設けられた残業時間の上限を超えて働いても、それはその人の裁量によるものと見做される(つまり雇用主は制度上の上限以上の労働対価を払わなくても良い)。ところが労働の内容にまで労働者の裁量が及ぶかというと、当然のことながらそんなことはないらしい。場合によっては定額でめちゃくちゃな量の仕事を抱え込まなければならなくなる、というような可能性も危惧されて、政府の意図とは裏腹に「働かせ方改革国会」などと呼ぶ人もいる模様。
シュワルツが言うように、社会のルールやインセンティブがその設計者の目的に応じて作られているのだすれば、このような場合、設計者たる人々が日頃どのような目的意識で動いているかが肝心だが(ry
『なぜ働くのか』バリー・シュワルツ(朝日出版社/TEDブックス)
http://amazon.co.jp/dp/4255009945/
posted by マリオ曼陀羅 at 17:06|
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