礬水(どうさ/ドーサ)を初めて使ってみる。膠(にかわ)とミョウバンの溶液で、紙の表面の滲み止めとして用いられる。
ずっと和紙に描いてきたので今まで使ったことなかったのが不思議といえば不思議なのだが、ペンのドローイングしかしてこなかったので、切実に困ったこともなかった。
ところが今取り組んでいる連作だと生紙の面と絵具の乗った面、二種類の表面ができてしまいペンのインクの線が均一にならないという事態に直面し、慌ててドーサを入手して試している次第。
アクリル絵具のうえはドーサを引いてもOKだが、既に引いたインクの線のうえからはインクが溶けて流れてNG。
こういう実験とか、使うべきとされている道具を使うとか、ほんとはもっとやってこなきゃいけなかったんだけど、とにかく生活時間は仕事々々でその隙間にわずかな瞬間を見つけては絵を描く、みたいな生活をしてきて、おまけに作業場もずっと持たずに来たので道具を増やすことに心理的ハードルがあった。
それが今は改善されているのか? と問えばそんなことは決して無く、でもそろそろこのままじゃ人生丸ごと後悔することになりそうな予感。
……なんでこれまで紙を主な支持体にしきたかといえば、紙は巻いて小さく収納できるからだし、なんでペンで線を引くだけなのかといえば、道具がミニマルで済むから。
絵を人に見てもらえるようになって、サイズのある作品の展示を考える必要が出てきて、はじめてキャンバスや板やパネルを使うようになったけど、それはそのほうが安く展示が作れる、というのが主たる理由。大きな紙の作品を額装して展示しようと思うと、その額装にかなり金がかかる。当時はよほど思い切らないとそんな余裕はなかった。2010年の個展(神戸)ではじめて大きな額の作品を思い切って並べたが、あれはやっておいて良かったんだなと今にして強く思う。
……とにかくまたあれこれやりなおし。これ以上妥協して後悔するのは絶対にダメだ。視力も弱った。
そんな風に「今はこれしかできない環境だから」とか自分自身を無理に納得させて、手元だけでどうにかなることで我慢してきたせいで、やってることも人間も絵の内容も、小さく小さくなってしまった。
諸事情あって仕方なかった面は少なくないとはいえ、ほんと、失敗だったなあ。
……こうして深夜にドーサ引いてみて、乾くの待って実験して、それから今度は二度塗りしてみて、また乾くの待って実験して、、、そうしているうちに俺の持ち時間なんてすぐに無くなってしまうんだよな。
だから描いて一発で絵になり、そして展示にもなる「壁」が意味を持つんだよね。
壁を使ったストリートアートは移民の文化だけど、その意味がものすごく良く分かるよ。
「壁」は随時募集中。今はメキシコに壁を求めている。
ドーサの沁みた神の表面がきらきらと光るのを眺めつつ。