近所の絶品たこ焼き屋さんのテイクアウト待ち。
イートインを止めてて、ビールのサーバーも動かしてないっていうからハイボールもらって、焼けるのを待つあいだ、店の中と外で距離を取って、店主とプロ野球談議。
……ところで今朝方、仕事はかどらず、酒飲んだ勢いで連ツイしていたみたいで、午後目覚めたらそれが出てきて驚いた。酒に酔った挙句、自分にも酔ってるようで厨ニ病まるだしのじじいの雄叫びだし、ところどころ暴言だが…… ここに置いておくと1年後にはまた表示してくれるようなので、まとめてメモ代わりに貼っておく。1年後に読み返してどう思うか、個人的な興味もある。
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ひとつ書いておきたい。
第一次安倍内閣があっという間に終り、その後政権交代があり、東日本大震災に起因する福島第一原子力発電所(東京電力)の原発事故があった。そのことに加え民主党の野田内閣というお粗末な内閣があり、自公の連立が与党に返り咲いた。以来、現政権が続いている。
「アベノミクス」を華々しく謳い、「三本の矢」などといって金融政策/経済政策をおこなった。政府に加え、日銀、経団連などが一体となり、株価の引き上げこそが経済復興であるかの如く、この国を導いた。
「景気は緩やかに回復している」と嘯き続けるばかりか、「戦後最長の好景気」と景気企業判断を崩さず、日銀の黒田総裁、例を見ない規模での金融緩和を続けた。しかし、「トリクルダウン」などというマジックワードがまやかしでしかなかったことは、国民の実生活を見れば明らかだ。
非正規雇用者は増加し、実質賃金は低下し続け、国民ひとりあたりのGDPもまた下落の一途を辿っている。要するに低下する国力を見せかけの数字で補ってきたということだ。この間、様々な失政、政治家の(疑獄事件に値する)事件が連発し、70年代以来日本ではあまり見ることの無かった抗議デモが頻発した。
ひとつひとつの具体的な事例はここでは挙げないが、このような国の在り方が続くなかで、文化は加速度的に安普請に陥ってゆき、右傾化する国民の流れを止めることも叶わなかった。国が疲弊すれば右傾化が起こる。つまり、国は疲弊し続けている。
個人的なことを言えば俺は出版関係の仕事を稼業としながら絵を描いて生きている。いずれにせよ文化、芸術に関わる仕事を指向し続けてきた。その立場から見てきた安倍政権の日本は、最悪としか言いようがないものだった。文化の領域も荒れ、出版業界でいえば「嫌韓本」「嫌中本」「日本礼賛本」など……そのような書籍が例えば羽田や成田といった、国外からの人々の入口となる空港の書店にも並べられているのを目にして、なんて馬鹿なことをするのかと唖然とさせられたこともあった。芸術家たちはナイーブで、多くが個人的な問題にフォーカスを当てて、毒にも薬にもならない創作をしてきた。「政治を音楽に持ち込むな」などという、自らの歴史を完全に無視した戯言まで、当たり前のように飛び出すまでに至った。本質が目に見える速度で崩れ落ちていく様をただ茫然と眺めるなかで、改めて分かったことは知性の劣化だ。
「アベノミクス」という経済/金融政策がなされるなかで、株や財テクを日々の糧にする近しい友人と、この問題について議論したことがあった。「いや、ただのバカじゃあそこまで上り詰められないし、続かないよ。なにか深い考えがあるんじゃないか?」 金融の世界は信じられないくらい潤っていた。目ざとい人々の多くが、そのおこぼれに預かっていた。「トリクルダウン」の正体が分かった気がした。「今は政府が金をぶっこんでいるから株価が上がる、投資すれば得をする、金が生まれる、高い税金を払ってるんだから、ここに乗じて取り戻さない方がバカだろ?」 ……自分だけが小さな何かを手にして、あとは逃げ延びる。そんな発想に思えた。もちろん、この世はサバイバルだ。誰もに等しい何かが保証されている訳もない。自分の身は、自ら守らなければならない。では、尺度をひとつ上げて家族、友人、もうひとつ上げて社会、そうなるとどうだろう? 社会を保善することこそが、自らのサバイバルに大きく寄与するのではないか。
「誰もに等しい何かが保証されている訳もない」と書いたが、「誰もに等しい何かが保証される」べきことがある。それがいわゆる「人権」と呼ばれるものだ。つまり社会的な存在としての「個」の存在、その権利、健康、自由、財産……「自然権」とも呼ばれる、人間としての、ベーシックな権利だ。
その概念に対抗するのは「特権」と呼ばれるものだ。その「特権」という概念を理解しなければ、「人権」に関する議論はできない。なぜなら「特権」も、おなじく人の行使しているものだからだ。特権に寄り添うことで、一体なにが生まれるのだろう?
プラトンという人がいて『国家』を書いたのは、古代ギリシャの時代ですよ。紀元前、つまり2000年以上も前の話です。…つまり俺たちは2000年以上も同じ問題に頭を抱えているということ。これが「人間」の現実なのかもしれない。だからと言って、この状態が「是」とされるべきじゃない、なぜなら俺たち個々が、それぞれの「個」として生きている訳だから。そして場合によっては、なにがあっても守りたい他者の存在だってあるでしょう。家族とか友人とか(対象は人ではないかもしれない)。自分が一体なんのために生きているのか。改めて考えるべき機会が今訪れているのではないかと思う。
もうバカはやめませんか?
進化しよう、そして守ろう。
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