朦朧とした頭でその展覧会の能書き、ステートメント/"Parallax"と題された長くない文章を気休めに読みはじめ、思い掛けずその芸術家の原初体験を共感させてもらったのは、蒸し風呂のようなオフィスで体験した奇妙なトリップであり、フラッシュバックだった。
時代は変わると言うが、高度経済成長期の結果のもっとも華々しい時期を僕たちは実は経験してきた世代だ。そのことを最近よく思う。社会経済の低迷(個人経済も同じく)や原発事故、表層化する矛盾やフラストレーションを、身の回りやニュースから感じ、より強くそう思う。
その時代のわずかちょっと前には、戦後のどん底からバブルのピークへと日本をぐいぐい突き動かした、最も変化の激しい時期があった筈だ。
親から子への、そのわずか一代二代の短い時間においてさえ、世界がまったくと言ってよいほど様変わりしていったのではなかったかと、自分が子供を持ち育てつつ、初めてそのような感覚が具体性を帯びている。
貴重なテキストだった。
僕自身の絵の原初体験もまた、幼児期、家庭、親というファクターのなかにある。僕の場合は、そこで掛けられた呪いを解くことができたのは30歳も近くなってからのことだった。
なんだかそんなことを思い出しながら、その人のテキストを読むなかに、そこに描かれる彼の父親の経営していた写真館、そして“写場”と呼ばれた特別な部屋の風景、そのなかで過ごす少年の姿が、懐かしいような情景としてありありと再現され、今僕の頭に不思議なリフレッシュの感覚を及ぼしている。
なるほど、今その人が注力しているのは視覚的な作品かもしれないが、その背景には、このようなことを言語化という手段をもってさえ伝え得る能力/感覚というのが在るのだなと感動を覚えた。
思い掛けず清涼感を覚えたそのテキストを、勝手に引用させてもらう。
■ 桑島秀樹展「Parallax -内在する視差-」/Hideki Kuwajima "Parallax"
2011/9/2(Fri)ー9/24(Sat)
アーティストステートメント
"Parallax"
作品のベースとなる肖像写真は1950年代より60年代にかけて写真家である父により撮影されたものである。
当時は営業、広告写真及び写真作家は写真士(師)または写真家と一般的に認識される度合いが
現在よりも強く、特別な撮影技術を要した職人として業界隆盛の一端を担う存在であった。
また肖像写真家としての確立を更に目指すべく作品制作は父にとって絶対的なものであったと思われ
盛んにプロ、アマ問わず彼の審美眼に叶ったモデルがスタジオ、ロケ等で幾度もカメラに収められていた。
それら人像の殆どは営業写真のそれとは相反するように笑顔が無く且つ穏やかさが排除されており
僅かな点数に見られるその微笑みも重厚さを伴った独特な重苦しさで表現されていた。
自宅兼スタジオであった我が家にはそんな父の作品や仕事としての写真が溢れており
その家中において物心ついた私にとっての唯一の鬼門の場は"写場"(しゃじょう)と言われる2階のスタジオであった。
来客時以外は僅かな明かりが灯るだけのその場所には成人式や七五三等の商品としての写真を
凌駕する程の前述の作品が数多く並べられそれはある種営業を度外視した程に思える展示のさまで
幼い私はその場でそれら作品と対峙する事に奇妙な恐怖心を抱き続けていた。
現在ではそれゆえの「力強さ」と解釈できようものだが子供心にはそのような
理解力など持ち合わせようもなく、恐い割にはその理由を探そうとしたのか日中に限りそれらを離れたり寄ったりして
眺めたものである。
しかしその不思議な底気味悪さに変わりは無く整然と配置された作品群を前にすると
何者かに取り囲まれたかのごとく暗く重い空間に身を落とし込まれるような気持であった。
午後7時過ぎ写真館営業終了時、父の命により写場の照明を消しに行く役目は常に私であり
元来封建的な家風故その理由を聞く事すら出来ず暫くは必要以上の勢いで階段を駆け上がり
慌てて全てのスイッチを切り、そして階段を転げおりるという有り様であった。
あまりのけたたましさに程なく叱りを受けその後私は安全確実にその仕事をすべく
薄目をしたまま全てをこなす毎日となる、目をつむりたかったがさすがに手探りでは要領を得ない為、
眼前に広がるぼんやりした映像を頼りに明かりを消す事で仕事は手際よくこなせるようになった。
薄目で見たスタジオの風景に溶ける作品群は人像としては認識できるものの
手法を変えた事でその捉え方にも変化が生じある種ぼんやりした物体の一つ
として確認出来るようになり以前のそれとは違った印象で受け止められたのである。
その一連の作品との出逢いは結果私が作家として歩む上での重要な事柄となり畏敬の念を抱きつつ
今作ではそれら作品、父また写真を用いた表現者としての自らと如何に向き合うかを一つの課題とし
実験さながらの所作においてこの制作に至った。
前述のはっきりとした記憶を頼りにカメラを肖像作品に向けそして私(レンズ)が写り込んだ画像に
焦点を合わすとそれは丁度薄目をあけて見ていたあの頃のぼんやりした作品がファインダーに
表れた、そしてまた作品に焦点を合わせまた自分に焦点を合わせ直してみる、
繰り返していく程その動作は見えない距離を測る行為にも思え、カメラの小さな目盛りでは
測り得ない近くて遠い記憶との距離を感じたのである。
そしてその始終を多重露光を用いて一枚の写真に仕上げた時その鑑賞距離の変化によって僅かに
変貌する二重潜像の内在する視差からは前述の父との関係性と併せ自らの生業の趨向をもぼんやりと確認する結果となった。
展覧会は彼の地元、大阪でのものだそうで、残念ながら今回は足を運ぶことができないと思うが、幅のある人物の生むストイックな表現の世界がそこにあることが判っているので、関西方面の人は是非足を運んでみてください。
●The Third Gallery Aya●
ギャラリースケジュール
大阪市西区江戸堀1-8-24若狭ビル2F
TEL/FAX:06-6445-3557
休廊日:日曜・月曜
開廊時間:火〜金/12:00〜19:00 土/12:00〜17:00
http://www.thethirdgalleryaya.com/