ただ描いているものが手元を離れて一人歩きしてゆくのは良い感じ。すごく自然なことのようにも感じられる。流れに沿って、害がないというのは良いことだ、生きているうえで。
商店建築(2011年3月号)
昨年、お店のオープンに当たって描かせてもらった新橋のバー“anis”のカウンターバックの壁画が、素敵な写真で掲載された。『商店建築』誌は、店舗デザインを主に取り扱う建築関係の専門誌。オーナーの山内さんとAzone+Associates Inc.のディレクションでお店のコンセプトが作られ、それを具現化したのが大塚 ノリユキ・デザイン事務所の大塚さん。その仕事として掲載されたもの。ぼくの絵はオマケ。
anis
住所: 東京都港区新橋3-2-10 Ono bldg, 2F
電話: 03-6268-8969
地図: http://bit.ly/f5TKGr
『アートコレクター』誌
(4月号)。どういう訳だか「画廊/編集部が選ぶ2011年の新人アーティスト」という企画に紛れて小さく掲載。ちょっと変な感じ。美術という脈をほとんど意識せずにただ絵を描いている身としては、こうして共感してくれる人があるということには有り難い感じ。新人アーティストって良く判らないけど、ベテランになったら何か変わるの?
絵を描きながら思うことはただ解放ということ。解放というのは、ぼくの考えだと均衡があって初めて成り立つもの。均衡が元にあるのか先にあるのかは、それぞれ。バランスに意識が向いてしまうと、もう解放は為されない。均衡を意識しなくても良いほどの集中もしくは放棄もしくは安定がその表現のなかにあったり動機になっていたりして、はじめて成り立つ解放。当初動機になっていたのは、放棄を覚悟しつつも求める平衡の、餓えに近い集中だったような気がする。それがたまたま先ずは自分にとって、やってみたら思い掛けず気持ち良い発露だったという話。
そこに共感があって、なんとなくなんとなく、今に至って、この先もきっとなんとなくが続く。
源から離れなければその流れは続く。源から離れたら涸れるかもしれないな。そう思うと、源を意識した生き方になる。源を意識すると、結局重要なのは自分ではなく源。その意味を説明するには、やっぱり絵なんだけど、この場合。
anis の紹介記事ということで、一昨日発売の雑誌『PEN』。
それから『クレア』だか『FRAU』の女性誌、こちらは天井に絵を残してもらっているギャラリー、Radium von Roentgenwerke(レントゲンヴェルケ)の紹介記事に写真として絵が出ているらしい。どちらも棚ボタ的な露出。確認していないけど、ルーペでも無いと絵柄は見えないかも。
でも、人目につく場所に絵が張り付いているというのは、何を思って描いているのかということから言って、ほんとに有り難いことだなと思う。何を思って描いているのかと言えば、それは先ずは森羅万象に対する肯定で、肯定する世界の広がりというのは、翻ってぼく自身の足場の広がり。だから肯定すべきものをすべて肯定して、この絵はどこにでもあればいいのだと思う。どこでそれを拾ってきているのかは、またややこしい話。あっちとこっちが自然に溶けて混ざる感じ。
価値ではない。価値はおそらくほとんど無い。あるとすれば無価値。
ただ行為があるだけ。明らかに過ちとなる行為がなければ、あとは現象を先取りして受け入れてゆけば良いんじゃないかなと思う。
意味が判りにくいとは思うけれども、先にあることを受容してゆくということは、元にあったことも受容してゆくということで、その工程として、ぼくの場合はエヲカクという行為がたまたま転がってきただけ。
だから絵は最重要事項になり得ず、ただ、無くてはならないものではある。あって良かったというものであり、それがあるべきもの、というか、あるもの、になってゆく。あるものになってしまえば、それはもうあるわけなので、後はなにを気にする必要もない。元より多分ぼくは何も気にしていないんだけど。
とにかく、そこになにかが存在していると感じてもらえるということは、とても有り難いことです。
上記 anis の壁画。題して『anisの壁』 ……そのまんま。