■ エヲカク ■

2010年07月14日

ART OSAKA 2010 所感、ってまあ酔っ払ってただけですが。って訳でもなかったか。

 日曜深夜、大阪より帰宅。大阪は暑苦しかった。そして例のワールドカップの決勝戦をテレビ観戦したんだけど、それはまあ良いとして……。

 ART OSAKA 2010、初日の金曜日の夜に着いて飲んで翌日、ガンガンする頭で知らない道を徒歩にて会場の堂島ホテルを目指してみる。案の定迷子。三井住友の荘厳なっていうか、いかつい神殿と監獄の融合みたいなビルが燦々と照らす太陽を浴びて威圧的。エンタシスの柱? ここはどこだ? 二日酔いと空腹のダブルパンチのクラクラ頭でうどん屋さんを探すも、大阪なのに何故か目に付くのはラーメンの方が多い。何故?
 さんざんぐるぐるぐるるる〜っと、びしょびしょに汗かきながら歩き回って、発見したうどん屋さんは讃岐のうどん屋さん。まあいいや、と入ってみたら冷やしぶっかけうどん美味しかった。おまけに現場のホテルはすぐ目と鼻の先だった。



 Room#1117、ギャラリーヤマキファインアートからの出展。午後2時過ぎ。大入り。クローゼットに、というかそのクローゼットの六連扉が僕の絵の展示場所だったのだが、とにかくそのなかに荷物を放り込ませてもらう。
 同部屋でぼくの目を惹いたのはクロード・ヴィアラ(Claude Viallat)の作品。60年代後期のフランスで“シュポール/シュルファス”というアート・ムーブメントがあったようだが、その代表格の作家のひとり。Support/ Surface、つまり支持体/表面という意味だそうで、それ以外にどんな意味があるんだという感じだが、とにかく支持体と表面。連続するパターンのバリエーション。ギャラリー主の山木加奈子さんは長らくパリにいた人で、その運動の後の作家たちとの縁があるとかないとか、不勉強で話のディテールを忘れたけど、とにかくそのシュポールシュルファス系の名前の作品を買い求めたりしている人のよう。並べてのんびり眺めていたいな、というような作品群を、そう言えばどこかで見た。
 それからヴェロニカ・ドバス(Veronika Dobers)というドイツ人作家の連作。旧東ドイツからいろいろあって亡命して、流れ流れて今は大阪にいて、再来年くらいにまたどこかへ行ってしまう画家。テキストというか文字というか本というか、それら媒体との親和性の高い作品群で、シュールなストーリーがあって、イマジネーションがちょっと恍けていて、それでいてシリアスで、一発で気に入った。最終的に飾られていたなかで一番高い作品、アクリルの、欲しくなって買ってしまった。余裕は???だけど、まあひと月ふた月、節制しますよ。
 ソリッドなのだが、温かい。なにかが偲ばれるような絵。


Veronika Dobers (Courtesy of Gallery Yamaki Fine Art)
そう言えば、タイトルなどのディテールを聞くの忘れた。
アクリルの背面から油絵具で描かれてるってことだけ。
もう自分の物だし、写真晒すのは別にOKですよね?


 まあ本の世界で生きてて、妄想というか想像の視覚化されたものが好きで、人間の縁や対話や頭の中身の世界が好きで、物語のインプットの効果というか影響を楽しむのが好きで、おまけに作品が気に入ったんだったら買ってしまうよな。口座残高に若干の余裕が残るのであれば。

 これまでに買った作品って10点にも満たないけど、買う時はいつも結局「なんとなく」買ってる。そういうものが自分の生活空間にあるといいだろうな、と思うし、自分の絵がそうやって人の生活空間に入って行ったらいいだろうなとも思う。だからまあこんなことやってんのか。
 絵や美術品の売買ってなんだか不思議な垣根の向こうの、ともすれば若干抵抗を感じている人も多々いるような行為だという印象を、自分で絵を描いてそれを(有り難いことに誰かに)売ってもらったりしながら強く持つこともある。だけど例えば今回のアートフェアの会場でもどこでもいいけど、そんな場所に足を運ぶお洒落に着飾った人達がその洋服に払う対価や、飲み食いしながらあっと言う間に流れてゆくお金のことを考えると、生活空間に自分の好きな作品が、しかもその実物があって、時にそれを眺めたりしながら暮らせるっていうのは、なかなかどうして悪くないお金の使い方なんじゃないの?と思うけど。だからまあぼくは実際に手に入れるんだけど、これって無駄遣いでもなんでもないよね、と思う。ただの等価交換なんだよな。
 まあでも洋服などの身辺の物や、美味しい物などと比べて、一般的にその価値がないと判断されているっていう単純なことなんだろうな、ちょっと寂しい気もするけど。
 例えばぼくが一番楽しかったのは、本の仕事の用事でバルセロナに行った時、訪ねる先のどの出版社でも、どのエージェンシーでも、どの飲食店でも、そこには有名無名に関わらず、とにかく本物の絵や美術作品が必ずと言っていいほど飾られていたこと。別に派手に飾り奉られてるんじゃなくて、ただ、そこにあり、そして空間を彩るというか空間に調和し溶け込む形で彩りを加えつつ存在するというか、とにかくリアルな物が絶対にあって、その空間に自分が居たこと。ただ実物だから存在感がやっぱりあって良いんだよね。「お!」って思わされるというか。イギリスでも割とそうかな。でもバルセロナはすごかった。楽しかったな、あの街は。何故かって言うと、そういうリアルがあったからだろうな。いや、勿論リアルはなんでもリアルですよ。でも、そういうリアルがあるんだっていう再認識が楽しかったに違いない。
 あっちでもこっちでも「お!」「お!」「お!」
 
 フェアの会場には、東京から来たギャラリーの知っている人なども数名出展いて、いろいろ話をする機会もあったけど、どこもあんまり作品が動いてなかった。大大大バーゲン会場だったのに。勿論、面白い作品ばかりじゃなかったけど、すてきな物も随所にあったよ、お手頃な価格で。等価以下の価格で。それで見物客は人人人で歩けないほど山のようにいるけど、アートを必要としている人達は少ない。まあどーしょもないな、こればっかりは。なにしろ必要としていないんだから、来る人たちが。でも来るんだ、どうしてか。物見遊山に。まあいいけど。別に自分の絵がどうだこうだって言う話とは、まったく関係のないところで思ったこと。
 関係なくないところで言えば、例えばぼくの絵の実物に付けられてる値段って、こないだやった単行本のジャケット用の絵の使用料(ということはもちろん複製)よりも安かったりして、なんだか不思議な気分になったりというのはあった。いろんな人が気に入っただスゴイだ綺麗だ面白いだって言ってくれるけど、まあそれだけ。「じゃあ要りますか?」って訊くとビビられる始末。

 出展していた Asian Collection の大橋さんとボブさんの部屋は、威圧感がまったくなくって、あの麻布の感じがそのままここにもあって、カジュアルに話をして笑って良かったなあ。
 思うにギャラリーみたいな人達が「何故ならアートですから」みたいな多少の威圧感を醸し出しているのも、いろんなマイナスの原因になってるような気もするな。そこはどうでもいいのにね。いや、そこなんだけど、どうでもよくないことをしているときにどうでもよくなる部分でどうでもよくなくなれないところが「そこ」という意味で。社交かな? そんななかだけで生きてくると、当然のように作品からも社交性は失われていくのかな、などと。その辺は好みの問題で片付けられる恐れもあるけど。
 とにかく先ず人でしょう、というのが大橋さんボブさんの在り様で、だからこそ人とアートが結び付くんだとまた思いました。

 ところでもひとつ買った作品っていうか、まあ作品だけど、桑島秀樹さんという作家のクルクルスコープ。

127604550.jpg
桑島秀樹/クルクルスコープ (Courtesy of Radi-um von Roentgenwerke AG)
っていうか、そのご本人と記念撮影。
判りにくいけど、展示作品を拝啓に。
これは実物を見るべき。楽しいし、執拗だから。
モノクロ作品、トランスペアレントな作品などは打って変ってスーパークール。


 誤解を恐れるからこそ言っておくと、この作家の作品の世界はものすごい美しいよ。独特のストイックな迫力があったり、徹底的にポップだったりするけど、それはまあ美しいレッドゾーンの住人だと思いました。このクルクルスコープはある意味ちょっとしたお遊びのような物だと思うけど、記念に欲しかった。本物はなかなか難しいものがあるから。飾る場所的に。写真作品もあってこっちは飾れるし飾りたいんだけど、今回は予算をヴェロニカさんに投じてしまったから、まあいずれまた縁と円があったらということで。でもこの人の物がなにか欲しかったから、クルクルスコープ。それでもいいんじゃないですか?
 ちなみに桑島さんに訊いた育児の秘訣は「愛と回し蹴り」。酔ってた時だけどね。

 ART OSAKA最終日、ぼくはホテルで目を覚まし、会場の堂島ホテルではなく、一路兵庫県の伊丹市へ向かった。伊丹市立美術館のアンドレ・ボーシャン展「世界で一番美しい庭」を見たかったというのと、ここの学芸員の岡本梓さんとこないだの神戸の個展の時に知り合って面白かったから。
 御堂筋線、東海道山陽本線、福知山線、知らない電車を乗り継いで、知らない場所へ〜。
 なんだか古風な佇まいのしっくりくる小さな町だけど駅前から丁寧な作り。ここでもうどんを探して小雨の中ちょっと迷い、お代わりして食べてから歩いていたら旧岡田邸だかなんだかっていう、それは立派な酒蔵の跡地に辿りついた。なんだこれはと思ってぐるり歩いたら、その敷地内に伊丹市立美術館。
 アンドレ・ボーシャン、やられました。
 というか入館したら、中世ヨーロッパの古楽器のトリオが中世の音楽を奏でるミニコンサートをやっていた。はじまったばかりで良かった。うどんをもう一杯いっていたら、もっと聞き逃していたところ。小食で良かった。そういえばシェークスピアの音楽ってこんなだったよななどと思いつつ。実際、当時のシェークスピアの舞台の為に作曲された曲で締め括られたミニコンサート。
 現場仕事で忙しそうな岡本さんとちょっとだけ話をして、独りで適当にぶらぶら展示を、と思っていたらとんでもない。「素朴派」というちょっと失礼なんじゃないの?と感じる名前でカテゴライズされるボーシャンの、その天然っぷりというか、突っ込みどころ満載の、しかし滲み出るほどの美しさを湛えた世界に、あっという間に意識を持っていかれた。
 ボーシャンて元々は庭師なんだって。それで徴兵されて戦地のギリシャに送られて、ああこれがあのギリシャかって感動して、帰ってきたら家業の造園業がつぶれてて、奥さんは気が狂っていて、それで40歳くらいで絵を描きはじめた人なんだって。たしか戦場で描いた戦略会議用の地図が「お前、絵うまいよ!」と上官に褒められて、それで「絵か!」と思ったらしい、そんな人。遠慮なく言ってみれば僕の仲間? いや、とにかく仲間を感じた。
 最初に見て歩いた数部屋は、いわゆるボタニック・アートという、植物や自然風景の絵のコーナー。なるほどーなるほどー、ボーシャンー。と思いながら進んで行くと、「神話/歴史」などなどと書かれたセクションへ彷徨いこんだ。彷徨いこんだというのがまさに正直なところで、そこにあった絵を見た途端に自分がどこにいるのかも忘れてしまった。太陽神のアポロンが雲間に例のアポロン馬車に乗って現れて、羊飼いたちが「わー」って見上げていて、ミューズやエンジェルがふわふわしてるっていう一枚の絵なんだけど、それを見たぼくも「わー」と。「わー!」じゃなくて「わー」。そんなのが盛りだくさん。
 思うに、人間って素直が一番だと思うんだけど、ボーシャンの絵はそのまんま素直を絵にしたような絵で、その素直さに感激しました。じわじわじわじわきた。釘付けになっていたら、岡本さんからの電話が携帯に。
「今どこにいますか!?」
「アポロンの前です〜!」
「え?」
 ってことで、そこから岡本さんと、それから副館長の多(おおの)さんというリーゼント風の男性と一緒にツアー開始。ボーシャンは独りでじっくり観るのもいいですが、みんなでワイワイ観るのもいいです。とても良かった。笑って話して、絵の細部をほじくって、発見して、盛り上がった。図録を買ったけど小さくて、でかいのが欲しいなと思った。なにしろ細部がというか小さな人というか神様とか、本当に面白くて。ただの「素朴派」じゃありませんでした。やっぱり。

 そんなこんなでまた大阪。
 堂島ホテル。
 


 午後7時の終了を待って、ラウンジでちょっと飲んで、いろんな人と話をして、購入したヴェロニカ作品を引き取って、1117号室の片付けを手伝って、気付けば新幹線にギリギリの時間。
 蒸し暑い大阪で、びしょびしょに汗かいて新幹線に駆け乗って、指定席のシートに座ったはいいけど背もたれに寄掛れないほどの滝の汗が体中から噴き出していて、とその前に駅でお土産の点天のギョーザや漬物や新幹線のTシャツやら買って、ビールをあおって、名古屋を過ぎたあたりから眠って、深夜に帰宅して、スペインxオランダの決勝戦まで頑張って起きて、それでも延長戦の決勝点は居眠りして見逃して、というART OSAKA 2010ウィークエンドだった。
 
 あんなに連日汗だくだったのに、体重は動いてなかった。何故?
 
 
 
 
posted by マリオ曼陀羅 at 02:33| Comment(0) | TrackBack(0) | art | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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