山本さんもぼくと同様に、高岡さんの帰国一発目のセッションを狙っていた模様(笑)。やっぱりフレッシュなうちに吸い込みたいものでしょう。
・セッティング中?の山本達久さん。
・背後の壁は去年10月の高岡さんとのセッションの成果の壁画(Jazz Keirin常設)
7時からのスタート予定だったけれども、高岡さんが楽器のトラブルということで、7時をやや回っての到着。6時過ぎに「ちょっと」という嫌な予感のするタイトルでメールが入った時にはもしやと思ったが、どうやら無事に解決したらしい。三ヶ月も放っておくと、安置されていたにも関わらず、それだけで具合が悪くなってしまう、まるで生き物のような楽器。
とにかく高岡さんの駆け付け一杯のビールが済んでから…… と思ったらブリュッセルの土産話が止まらなくなりそうになっていたので、無理矢理に中断してもらってセッション開始。
会場のJazz Keirinは知る人ぞ知る、うどんとジャズと競輪のクロスオーバーする名店。店主の栂野さんの打つうどんがとにかく絶品。ここに来て出された料理に首をかしげて帰った人は見たことが無い。でも店の雰囲気がアバンギャルドなのと、メニューの表記が既成概念を砕くことが相俟って、入店して茫然としてそのまま回れ右して帰るお客さんは毎週必ず数組あるとか……。とにかく内容の濃いお店。
7時のスタートに間に合うように来てくれたお客さん達のなかには、既にうどんを啜っている人達も。広すぎない店内は、厨房もホールも大忙しで、日本ではちょっと味わえない具合の良いカオスが空間を埋めている。ここは世界基準の店だ。そもそも店主があらゆる意味で日本に収まってきていない人なんだから、そうなってるのも自然といえば自然なんだろうけど。なにしろうどん屋を開業する前は、スリランカと日本の間の貿易で非常に面白い役割を担っていた人だし、それ以前の放浪話はもうエピソード満載過ぎて、ここでは割愛。
さて、とにかくいろんな人達がお店一杯に来てくれて、とても良い気分でスタート。

高岡さんのチューバの、あの独特な奏法の、なにかを引き摺るようなアブストラクトで物語性の高いイントロに、乾いた大地にタンブル・ウィードの転がるような山本達久さんのドラムのイントロが重なり、そこからじっくりと一時間強のインプロビゼーション。タンブル・ウィードって、西部劇映画などで荒野を転がっているあの丸まった枯草のようなものの呼び名だけど、その転がる枯草の球が、まるでゲームの「塊」みたいにいろんなものを吸い込みながら時間を掛けて転がり続ける。非常にじっくりと時間を費やしながら、なにかを煮詰めるかのように展開していくチューバとドラムの即興音楽。山本さんのプロフィールにある「純アコースティック非エレクトリックドラマー」っていうのの意味が、なんというかとてもよく判るそのドラムを間近に、ぼくは高岡さんのチューバのハードケースを置いて白いマーカーで線を引き描く。
展開するする! 言語化は困難。とにかく時々目視して確認しないといけないくらい、多彩としか言いようのない音がチューバとドラムから鳴っていた。いやーすごいな。
絵を描くよりも踊っていたいと感じた瞬間が幾度も。



セッションってやっぱりこういうコミュニケーションのなかで成立するもんなんだよな、と絵を描きながら楽しくて仕方ない。小躍りしたい気分というか、実際に小踊りしながら。手元がブレない程度に。これまでもいろんなセッションを、いろんなミュージシャンやパフォーマーの人達のなかでやらせてもらってきて、ほとんどどれもこれもそれぞれに面白さというのはあるのだが、こちらで醸造されるイメージが音に反映されてゆく感じの分かるセッションというのはレアと言えばレア。やり方がちょっと間違っていたのかもしれない。やっぱり背中を向けてやっているだけでは機能しない部分があるんだな、とこの夜も再確認。勿論「おおっ!」と言う音像や音響のなかで、それに突き動かされながらこちらの手元がドライブされてゆく快感も、それはそれで楽しいんだけど、どうせやるならインタラクティブな要素が高いほうがセッションとしての自由度と精製度は高いのだと思う。これからはやっぱりなるべくこの方向だな、と思った。
セッションの後は毎度のうどんと酒の饗宴。ベルギーの話はその肝がどこにあるのかと言えば、それはやっぱり人々の営みのこと。Jazz Keirinの常連の闘う障害者/キクちゃんと、お名前を失念したが商店街のなかで精神障害を患う人達に仕事の場を提供しているという人、彼等が社会福祉の話に喰いつく。なにしろ高岡さんがブリュッセルで暮らしていたのはエジプト人の不法占拠物件ブローカーの物件で、まあその辺は彼の滞在記を読んでもらうのが一番手っ取り早いのだが、とにかく賃労働での社会奉仕をしていない人達だからと言って切り捨てない補完システムのようなものがそこにはあって、それは要は文化的な成熟度がその土地に在るというひとつの証明のようなもの。もしかしたら高度経済成長以前の日本にもそのような成熟した社会が存在していたのではないかという気がするけど、今やかなり深い田舎に行ったってそのような社会システムは成立していないのではないだろうか。芸術家達が喰えない喰えない言っている理由のひとつには、社会的文化が成熟することを放棄してしまったというのが背景にあるのではないかと感じる。
例えばブリュッセルの日曜の朝市の話を聞けば、市場を閉める時間になると、そこに野菜などを売りに来ている人達は必ず「誰か」に売れ残った食材を何らかの形で残していくそうだ。それを分け合う人達がいて、それで食っている人達がいる。働かざるもの食うべからず、というのはひとつの真理だと思うけれども、では「働く」ってなに?という問い掛けが、そのような社会にはある。必ずしもマネーに隷属することだけが仕事ではない。もっともマネーが必要というか有用な局面というのは必ずあって、その分は個人が個人的責任において稼いで行くのだが、でも例えば毎週日曜日になればタダ同然の食材が手に入ると分かっていれば、稼がなければいけないマネーの基準はまた変わってくる。衣食住の住の部分でさえ、上記のような不法占拠物件ブローカーを経由して、自分にとって合理的な金額でどうにか手配してもらえる可能性があるということであれば、そこでもまた基準というのは変わってくる。ぼくはフィラデルフィアにいた時にスリフトショップと呼ばれる寄付された品だけで回っている古物屋で洋服などはタダ同然で買っていたけど、あれも地域における社会保障的な役割を果たしていたのだと思う。とにかくその度合いが、少なくともブリュッセルの話を聞く限り、とても高い。人口が日本ほど多くないからというのはそのようなシステムが成立する要素としてデカいのかもしれないなとも感じたけど、それだけではなく、例えば音楽が演奏されていれば人がそこに足を運ぶというような文化的な好奇心や習慣が根付いているような国にはとても強く惹かれる。日本とはちょっと、というかかなり違う開放感が、そんな土産話のあちこちから当地の風となって吹いてくる。素敵な打ち上げだった。
そしてその闘う障害者のキクちゃんも麻痺した身体のまどろっこしい舌で、とにかく話を面白く聞かせてくれるのだが、ちょっと余所見をした隙に女の子をつかまえて「俺と一緒だったらどの美術館も500円(だかなんだか)で入れるよ」と振り向けばナンパ?をしている。ものすごく知的な人だ。Jazz Keirinと出会って良かった。
飲み過ぎた。
チューバのケースに描かせてもらえるなんて、素敵なことだよなァ。
・できあがったチューバのケース。
・この反対面は画家の青山健一さんの幸せな白い鳥たちの光る絵。
・実に贅沢なキャンバス。
*高岡さんのブリュッセルの超素敵な記録は下記リンクから。1月26日のエントリーから遡って11月頭くらいまで。要チェック。
http://d.hatena.ne.jp/daysuke/
*そして勿論、Jazz Keirin http://www.jazzkeirin.com/
(アルバイト募集中だってよ!)
余談だが、この夜もセッティングの時点から娘(6)を参加させる。現場が割と近所だということもあってだが、それよりもとにかく感受性の柔らかな今のうちに、彼女にとっての非日常の現場を知る、物事が動くのを見る、今の自分の関与できないことがあり、それが機能する、そういうこと全てが魂を形成してゆくのだと思う。それが機能したという姿を、絵を描きながら、音楽にまみれながら、うどんに絡まりながら示すことができれば、それがレッスン。
ペンの手配や準備など、できることをちょっとだけ手伝わせる。