■ エヲカク ■

2019年05月17日

Odna dancing in front of my mural

posted by マリオ曼陀羅 at 05:34| Comment(0) | art | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月12日

ARTE FUSE レビュー「Mario Mandala at HACO」

3月のニューヨークの個展のレビューがART FUSEというメディアに掲載されたものを、著者のJonathan Goodmanの許可を得て和訳しました。

アメリカのストリートカルチャーと東洋的な精神の世界との融合という切り口で、取り上げてくれました。

>>
学生時代の2年間をフィラデルフィアで過ごした田内がアメリカのポピュラー・カルチャーに通底するストリート・カルチャーから影響を受けていることは明確である。と同時に、フェルトペンを用いて描かれた入り組んだ曲線は、仏教的な瞑想を促がす曼陀羅へと繋がる意識と結び付いている。極めて乖離したふたつの要素が、このような融合を果たし得るなどと、いったい誰が考えただろうか?しかし、全く異なる地点より生じたこれらの美学が現代において見事に融和し、相互的に機能している。
<<

>>
彼は自らの絵画的創造において、それら異質な要素を融合させ、私たちのこの時代の精神を異花受粉させることに成功した。その努力は祝福され得るべきものである。
<<

以下よろしければ全文お読みください。


C7ED5239-0CA5-469F-9EC0-C7C815C7EAFE.jpg
ARTE FUSE (US)
“Mario Mandala” at HACO (by Jonathan Goodman)

<Japanese translation(和訳)>

「マリオ曼陀羅( Mario Mandala)」展/ HACO NYC

 グラフィティの美意識に曼陀羅美術の要素を強烈に組み込んだ田内万里夫(Mario Tauchi)の個展が、ウィリアムスバーグ(ニューヨーク・ブルックリン)のイーストリバー沿いにあるオルタナティブなギャラリー、HACO で開催中だ。ギャラリーの壁面に直接描かれた絵とともに飾られているのは、概ね紙を支持体としたドローイング作品である。東京に拠点を構える40代半ばのアーティストである田内の有機的で複雑な線画が、HACOのディレクターである末次庸子(Yoko Suetsugu)の手により展示されている。西洋と東洋の美意識が、それらドローイング作品のなかで、見事な融合を果たしている。学生時代の2年間をフィラデルフィアで過ごした田内がアメリカのポピュラー・カルチャーに通底するストリート・カルチャーから影響を受けていることは明確である。と同時に、フェルトペンを用いて描かれた入り組んだ曲線は、仏教的な瞑想を促がす曼陀羅へと繋がる意識と結び付いている。極めて乖離したふたつの要素が、このような融合を果たし得るなどと、いったい誰が考えただろうか?しかし、全く異なる地点より生じたこれらの美学が現代において見事に融和し、相互的に機能している。

6EF2F382-A9F8-45E7-ABBB-610C41A61CFD.jpg

先ずは「Untitled (Mural)」(2019)と題された、おおよそ8 x 10フィート(2.5 x 3メートル)、黒い壁に直接描かれた大型の作品である。生命体にも似た、丸みを帯びた複数のフォルムが環状に連なっており、それぞれの内部には異なる有機的なパターンが描かれている。左上部には半円形の飛沫のようなパターンが立ち現われており、虚空へと誘うアーチを思わせる。インプロヴィゼーション(即興)で描かれた作品だが、これら結び付く個々の形状は宇宙空間で調和する数多の銀河系の姿なのかもしれない。そのような見方が詩的すぎるのだとすれば、別の言い方も可能だ;まるで1970年代のラグ(敷物)やペイズリー柄の壁紙にあるようなパターン模様が連綿と続いているようにも見て取れる。端的に言えば、この展示においてはこれらの複雑な線画によるアブストラクトな表現を用いつつ、物事の意味に対するエレガントな誘導と、そのための複合的な象徴化が、視覚的かつ知的に為されているのだ。

40F4A357-7829-46E4-8A27-7806FF19FAB5.jpg

471C42A2-33D2-47F3-8EE2-1C62EC5BE35D.jpg

壁の絵よりも小型の「Emptiness(PDG,2018)」と題された作品が展示されており、こちらは淡い赤系の色で描かれた球、ドーナツ、ピラミッドの形が垂直方向に、あの壁の絵と同様に次から次へと連結し合うオーガニックな図案のうえから配置されている。画面左手に連なるエレメントはまるでスパゲティの束のようだ。内へ外へと入り乱れるネックレスのごとき形状だが、細かく、しかし若干の緩さを持って空間を取り巻いており、その大きな集合体が刹那的均衡を生み出している。黒い線で描かれるそれら有機的な構成要素とは対照的に、二次元というよりも立体を思わせる三種の赤い幾何学的なフォルムが、そのうえに描かれている。おそらくはそのタイトルが仏教的思想を思わせるためかもしれないが、これらの配置はあたかも、アブストラクトな空間に対し、明確な意図に基づいて配置さえているように目に映る。「Authentic(2018)」は紙に描かれたドローイングだが、ここに展示されている他の作品よりも多くの色彩を用いて描かれている。金色の円が左手上部に配置され、その下方にピラミッド、そして右手には球体が描かれている(いずれも画面から見切れており、視覚的に完結していない)。これらのイメージの背後には、やはり複雑な結合を見せるリース状の図案が描かれているが、先に解説したものとは異なり、薄い赤と白によって着色されている。それらフォルムが重なり合うことで、抽象的な表現を用いれば、セクシャルなイメージを構成している。この作品からは、人工的なアンビエンス、もしくは宇宙的な印象とも呼ぶべき何かが派生している。

6FBABF1E-FABB-4FE8-B3A0-7C2D9725FA84.jpg

「Emptiness(2018)」と第されたこの絵 には 、実在しない巨大な 漢字が、黒い線で描かれた二重構造に連なる円環に重ねられて示される。画面上は隈なく装飾が為されているものの、禅仏教における無の空間観念が直ちに想起される。 田内の 作品を特徴づける複雑なフォルムに重ねて描かれたこの解読不能な文字が、 仏教思想を連させ、そして明らかな精神性を感じさせるタイトルを伴うことで、視覚的かつ哲学な体験を提供している。今回の展示が特にスピリチュアルな構成であるというこではない。いずれも歪んだ曼陀羅が提示されてはいるが、それはむしろ視覚的効果を動機とたものであり宗教性を感じさせるものではない。しかし、それでもなお曼陀羅の本来持つ瞑想的な効果と切り離して考えることは不可能である。このような創造が信仰とまったく無関係であるはずがない。おそらくそのことが、この展示を際立たせているのだ。非凡な技術と知的な構成力に裏打ちされて示される世界観と、仏教的精神性を伴うフォルムによるミクスチャーが展開されている。クロスカルチャー的視点と創造性は、今やある種のクリシェと言っても良いものだが、そこに意味が伴わないということではない。田内はアメリカのストリートに美学を見出し、それを活用しているのだ。そのうえで、彼はアジア的な解釈を主張することを忘れてはいない。考え方においてもアートにおいても極めて大きくことなる、東京とニューヨークというかけ離れたふたつの場所に思いを馳せれば、これらの融合を図ることは容易いこととは言えない。しかし彼は自らの絵画的創造において、それら異質な要素を融合させ、私たちのこの時代の精神を異花受粉させることに成功した。その努力は祝福され得るべきものである。

Mario Mandala展、HACO NYC
2019年3月2日〜4月7日
31 Grand Street, Brooklyn, NY 11249

www.haconyc.com

―――――
ジョナサン・グッドマン(JONATHAN GOODMAN)
ニューヨークを拠点とするアートライター。30年以上に渡り、コンテンポラリーアートに関する記事を「ART IN AMERICA」、「THE BROOKLYN RAIL」、「WHITEHOT MAGAZINE」、「SCULPUTURE」、そして「FRONTERAD(マドリッドのWEBメディア)」において執筆している。ブルックリンのプラット・インスティテュートで教鞭を取り、コンテンポラリーアートに関するライティング、および主題に基づくエッセイ・ライティングの講師を務める。

B6B4AB13-3642-49DF-9736-1387475223DD.jpg
posted by マリオ曼陀羅 at 05:20| Comment(0) | art | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月05日

2019年4月〜5月

大型連休後半。埼玉から都内に戻って寝て起きて千葉方面へ。品川からバスで東京湾を越えて、大多喜へ、画家の中上清さんと奥様の彩子さんを訪ね、画業一筋で歩いて来た中上さんの貴重なレクチャーや年季の入ったエピソードの数々に耳を傾けつつ、やはりお酒。社会勉強の特別コースにと連れてきた息子は焚火を通じて人類の起源や神話に関して画伯から教わる。彩子さんはかつて神保町で、文壇や出版界の鬼才達、重鎮達の集まる(僕には足を踏み入れることな許されなかった)社交界のような、シェルターのような酒場を開いていた人で、彼女の編んだ『戦争の教室』(月曜社)というアンソロジー本に、僕の絵をひとつ紛れ込ませてくれた有難い人でもあり、世代が僕と変わらないこともあって、90年代の日本のアート界の激動期の事や、今はもういなくなってしまった出版界の珍しい人達の話など交わしながら、これからどうしていくのかなど、ボヤキなども織り混ぜつつの話を聞いてくれて嬉しい時間でした。大多喜に縁の深いつげ義春の作品集を画伯から貸してもらった息子は、なにを感じたのか知らないが、寝そべってあっという間に読破して、画伯に勧められる酒を上手に断りながら、いつのまにか寝ていた。翌朝、といってものんびりと朝を迎えて、起きてくる子を待って、隣町(いすみ市)に住む大好きな彫刻家の象山隆利さんのところへ。彩子さんと中上さんが車で送ってくれるというので、願っても無い機会と思って出しゃばって引き合わせを買って出て、道中で酒を仕込んでいすみ市へ。彫刻家の象山さんは行き掛かり上の事情で(本名の田内隆利というお名前で)千葉大でモノ造りをもう何年も教えている先生でもあり、その御宅は先生のセルフメイドのこだわり抜いた二階建てで、庭のピザ窯もまた自作。そこに先生と縁のある卒業生や地元のイノベーター達(農)や何やってるのか謎の人達が集まって焼きたてのピザと、織物の奥様の美味しすぎるご当地モノ尽くしの副菜と、やはり酒(各種)を煽りながら、スカやテクノやアシッドジャスをポータブルのレコードプレイヤーで流してた(この日のDJは先生の教え子だという、ちょっとおかしな人)。勝浦のカツオが二匹消え、ピザの生地が食い尽くされて、子供達は野山に散って、ピザ窯の庭から木調のリビングに場所を移してコーヒーで落ち着き、前にあった時には確か高校に入るか入らないかの頃だった先生の長女(当時に俺のデザインしたTシャツ着てくれてたw)の嬉しい近況を聞かせてもらい、最後に隣の畑の蕗を少し摘ませてもらって、大多喜オリブのバス停へ、最後に残った皆で。

……千葉の前に埼玉の奥深くであれこれ手伝いをしたプエルトリコ人の猛る魔女も無事にニューヨークの拠点に帰り着いたようで、早速僕のスマホ宛に指令を飛ばしてきた。

……千葉の前の埼玉の前夜は世田谷の編集者カップルのお宅でワイン6本。

娘はこの春に入学した高校で、早速できた友人と時間を過ごし、課題をこなそうとヘッドフォンをかぶって集中し、妻はここら辺で一度自らの進路について改めて考えながら、疲れ過ぎた身体を休め、そんなことしているうちに、日本は元号が変わったらしいが、その虚しさについては(幸いなことに)あれこれ考える暇もなく。

5349404F-7F8D-4929-8B02-786DB38F629F.jpg50B097D9-C355-4D7C-8D8C-4BA9478AB34F.jpg247D4709-DD6C-4C42-B177-9BC76FB77823.jpgA7A7DDC6-128B-42B6-AFEB-95DBFE4E28B5.jpg

あとこれ

25613535-1EC6-49D3-9B4B-1E17911A3203.jpg
posted by マリオ曼陀羅 at 16:48| Comment(0) | diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月24日

すてーとめんと

自由を謳歌してみたことがある人がいるのか? 日本では、まだそれが可能。みんな無責任。基準もゆるい。バカを相手にする前にやってみて〜。謳歌してみて〜♪

少なくとも逮捕されることも殺されることもない。ちょっとしたことでは。

時間を自分のために使え。自分の愛する人、愛する物事のために使え。それが会社でも仲間でも個人的なことでも、なんでもいいでしょ?

そういう人たちが拡充していく物事が、自由を担保していくんだから。

阿倍や麻生や管や、そのさらに下の三下のこと馬鹿だ酷いだなんだって言ってる奴ら、そいつらこそバカなんじゃないか? こいつらがどーしょもないってことなんて、そもそも分かりきってることじゃないのか? そんなことは無視して、やりたいこと徹底的にやりゃいいんだよ。今のうちに。人生短いぞ?

そうして誰かがやったことでしか自由は拡大していかないんだから。それが人間社会のバイオロジーなんだって、ギリシャのやブッダの時代からずっとそうでしょ?

政治や社会を語るなら、そのうえで建設的に語ろう。そして歌い踊り、飲み、喰い、そのために必要な働きもしよう。

とにかくやりたいようにやればいい。それが会社でも仲間でも個人的なことでも、なんでもいいでしょ?

真面目にやろうよ?




posted by マリオ曼陀羅 at 04:33| Comment(0) | ewokaku | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月23日

早期発見、早期対応のススメ(過労

昨夜の経験は誰かの役に立ちそうなので、メモしておきたい。

実はここ二週間ほど、(表向きはさておき、内面的に)ほぼ制御不能な状態で過ごしていたけど、それが妻の「もしかして過労じゃない?」という昨夜の一言で、いっきに納得がいった。

で、判断力が残っているうちに、掛け持ちしている仕事やプロジェクトの各位に連絡。

〆切を延ばしていた案件2件の相手それぞれに、スマホのテキストで短く状態を説明。そして詫び。これだけで、先ず気分がものすごく( も の す ご く )軽くなった。

過去にうつ病に陥ったときも、後で考えればこの「過労」が原因だったので、それを先ず、「自分の判断」で「回避できた」ことがデカイ。

続いて翌日、日中を待ち、週3の仕事をさせてもらっている某社の直属の管理職に対し、きちんとした文章のメールで、過剰気味になっている業務内容について相談に乗ってもらいたいと丁寧に伝える。業務のどこに負荷があるのかなど詳細は伝える必要ナシ。ボヤかないで、相談依頼のみ。

そして、今日は作業的なことを何もしないと決める。昨夜のスマホメッセージに対し即レスを返してくれた編集者が運良く近所のファミレスにいたので、そこに出向き、近況交換/スケジュールの組み直し/作業内容に関する具体的な相談。一人で考えないことで負荷がものすごく減る。

…こうなる前に冷静に考えていれば、自分の状態が「過労」であったことは明らかなのだが、不思議なことに妻に指摘されるまでその実感が皆無だった。「終わらない/片付かない/進まない」という状況から「もっとやらなきゃ、もっと進めなきゃ」と自分を追い込み、手を休める事ができなくなってた。

「過労」を自覚したところで、改めて全体の作業量やその時間を振り返ってみると、とにかく無理があるし、無茶苦茶だったことが分かった。また、2016年に前職の業務整理に着手してから現時点まで、とにかく気が休まる暇がなかったことを自覚できた。おまけにその間、ニューヨークの個展もあった。

仕事も創作も、個々の作業は(分かりやすく)前向きな取り組みであり、だから作業が増えることも「成果に直結する」くらいの認識だった。だから「過労」を見過ごしていたのだと思う。やればやるだけ営業成績がプラスになるような仕事をしている人々も、同じような見過ごしをしているのではないか。

自分では「過労」の自覚が無かったわけで、それを妻に指摘されたことで、制御不能に陥りかけていた状態を、初めて自認することができた。妻からは「もうずっと過労だと思っていたので、もっと早く言えば良かった」と。でもこちのテンションが張っているし、物事が動いているようだから「言いにくかった」と。

まだバランスを取り戻したわけじゃなくて、腹痛もあるけど、少なくとも自分の判断力が残っているうちに、(他者の力や目を借りてでも)自分で対応できたのがとても大きな自己肯定感に繋がっているように思える。雲間から光が射してきたような感じ。助かった。

でさっきメールチェックしたら某団体から「国際委員会の委員に推薦されたので、就任状にサインを入れて返送を」というメール(笑)。どーしろと!? 今ならこのメールにも冷静な気分で「諸業務調整中なのでお待ちを」と返せる。昨夜までであれば「そうか」と署名してすぐ返送してドツボだったかも。

…もしくは途方に暮れて対応/返信できず、その対応のできなかったという事実が更なる負荷/負担になっていたと思う。…判断力ありがたい。しかし判断力を失うのは、こういう状態だと割と簡単なのだと分かった。ヤバイと気付けたことが僥倖。今夜も仕事しない。

悪びれずに、正直に堂々と、難局なら難局だと相手に(早いうちに)伝えるのが肝心だと思った。相手だって対応できるし、してくれる。してくれないのなら、逃げるしかない。打つ手があるうちに打つことで、先ずは自分の状態がメンテナンスされるというのは、良い経験だった。

おっかない奥さん、ありがとう( ´ ▽ ` )ノ

 
 
 
……ひとしきり、調整ができたら、先のニューヨークの記憶が薄れないうちに、それもメモというか記録を遺しておきたい。自分の老後のために(笑)
 
 
 
 
 
posted by マリオ曼陀羅 at 02:34| Comment(0) | diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする